突然ですが、日本人で一番最初にラーメンを食べた人は、水戸黄門(徳川光圀)だと言われていることを知っていますか?
水戸市には、このエピソードにちなんで「水戸藩ラーメン」があるらしいです(笑)。
ではなぜ、中国発祥のラーメンが江戸時代の日本に初上陸した場所が、国際的な長崎や、江戸幕府がある江戸ではなくて、地方都市の水戸なのでしょう。
水戸徳川家にラーメンを伝えたのは、朱舜水という中国人(明人)だとされています。朱舜水は、朱子学の元祖である朱熹の親戚で、当然ながら朱子学の講義も行いました。徳川家康の命もあり、水戸家では朱子学が盛んだったのです。
というのは、江戸幕府を開いた徳川家康は、徳川家支配の正当性を担保するため、“官学”として「朱子学」を採用したからです。
#ちなみに、朱子学=新儒教ができたのは、中国の南宋時代です。
ここまで読んできて、ラーメンや朱子学が、なぜ血液型と関係あるんだと疑問に思う人も多いでしょう。
実は大ありなのです(笑)。
では、本題に行きます。
こう言うと驚く人がほとんどでしょうが、血液型を批判・否定する人は、心理学が「科学だから正しい」という朱子学的な“神話”を信じているのです!
そして、この伝統は明治以後も消えることはなく、現在までずっと続いています。
そんなのは、あまりにも突飛で訳の分からない説だと思うかもしれませんが、きちんとした根拠もあります。
私にだまされたと思って、最後まで読んでみてください。
さて、朱子学のテキストとして一番ポピュラーなのは『近思録』です。
現在ではすっかり忘れ去られていますが、江戸時代の知識人なら読んでいない人はいないと言っていいほど有名でした。
近思録にある朱子学の特筆すべき特徴は、「権威主義的」であることです。
なにしろ、朱子学は南宋が元に滅ぼされたときにできた学問なので、元に征服されたという現実を無視して、中国人が絶対的に正しいというイデオロギーに基づいています。
だから、「科学」(=朱子学)は必ず正しくなければならないのです。
科学が、正しいこと(間違っていないこと)が反証されていない仮説に過ぎないことは認められませんし、「血液型」と「心理学」を相対的にとらえて、比較・研究するなんてこともできません。
この点は、山本七平さんの『1990年代の日本』に詳しい論考があるので、かいつまんで紹介しましょう。
彼は、朱子学的思考の典型として、明治人の加藤弘之を挙げています。
加藤は、1877(明治10)年に東京大学(後に組織が改正され帝国大学となった)の初代綜理(総長)、いわば「東大をつくった」人で、まさに明治のインテリ中のインテリ、アカデミック界のエスタブリッシュメントです。
加藤弘之が強く主張した「科学」は『近思録』的であり、これは一見科学的な「神話」に過ぎない。
私はある官学的社会科学者が、「マルクス主義は正しい、なぜならそれは科学であるから」と言ったとき、反射的に加藤弘之を思い出し、「なるほど、この系統は生きているのだな」と思った。
加藤弘之の『吾国体と基督教』は、科学、科学を連呼しつつ、最終的結論は「天皇制が絶対であることの科学的証明」に終わっているのである。従って「科学」だといわれば沈黙し、同時にそれへの反発としての「反科学的自然順応主義」が出てくる。これもまた日本のおける最も強固な伝統だが、いれずも「科学」には関係あるまい。
次に、問題の加藤弘之『吾国体と基督教』から引用します。
これも、山本七平さんの『1990年代の日本』からの引用で、字句は読みやすいように現代仮名遣いに直してあります。
諸君!余はキリスト教を以てわが国体に大害あるものと考えているから、その理由を科学的に証明してみようと思うのであるが、しかし余は独りキリスト教に限らず、およそ宗教といえば、宗派の如何を問わず全く好まぬのである。
それはなぜかと言うに、いかなる宗教といえどもことごとく吾人に迷信を与えるもので、大いに知識進歩の妨害をなすからである。
(中略)
迷信と言うも全く知識の不足から余儀なく生ずる迷信ならば致し方がないが、およそ宗教の迷信と言うとその始め多少知識のある者らが故意に迷信を造り出して、それを拡めたのであるからその害は頗(すこぶ)る大なるものである。
仏教でもキリスト教でもその他いかなる宗教でも同様であるが、その迷信に陥る者が皆無知文盲の者のみならば、まだしもであるけれども中には多少知識ある者迄も共に釣り込まれるのみならず、また哲学者科学者さえ往々この迷信の災厄に罹るのであるから実に歎かわしい次第である。
この部分を、『近思録』の第十三巻「異端之学」と比べてみると、言っている内容がほとんど瓜二つなことに驚かされます。
【参考サイト】
以下は、この「第十三巻 異端之学~聖人の教えに反した学問」の現代語訳からの抜粋です。
仏教・道教ともなると、その教えは一見すると理にかなっているようにみえます。また、その教説のたくみさは、楊子・墨子などとは比べものになりません。これが、仏教・道教の害がもっともひどい理由です。
学ぶ人は、仏教を「心を惑わす淫らな音楽」や「心を悩ます美しい容姿(肉体)」のようにみなして、それを遠ざけることが大切です。そうしなければ、あっという間に仏教にとりこまれてしまいます。(なぜなら、仏教の教えは一見すると理にかなっているようにみえるので、人はそんな外見のよさに惑わされて、中身を見誤ってだまされてしまう危険性があるからです)。
山本七平さんはこうも言っています。
こういう発想をすれば宗教は排除すべき迷信だから、「科学技術と宗教はいかなる関係にあるか」、などという問題意識さえありえない。
論語を読んだ人はおわかりでしょうが、儒教には「怪力乱心を語らず」という有名な言葉があります。
心理学は「朱子学=科学」なのだから、これと対立するとされる血液型は「迷信」、すなわち「怪力乱心」です。だから、何がなんでも排除しなければならず、「血液型と心理学との関係」を比較・研究するなんてことは、絶対にやってはいけない“タブー”なのです。
もう一つの朱子学の厄介な点は、身分的な差別意識が極めて強いということです。
こちらは、井沢元彦さんの解説がわかりやすいので、その一部をネット上から抜粋しておきます。
(9)平成25年5月28日、夕刊フジ「激闘の日本史(114)」(井沢元彦著)
<朱子学が自由競争の実力主義を失わせた>
欧米の学者は朱子以降の儒教を新儒教として、孔子以来の儒教と区別している。
(中略)
それは激しい排他性と独善性である。朱子学の基本コンセプトは、「外国には文化など存在せず、中国人も試験に合格した官僚以外はクズ」ということだ。孔子はそんな事は言っていない。
日本はもともと儒教国ではなかった。だからこそ足軽の木下藤吉郎は関白豊臣秀吉になることができたのである。
(10)平成25年2月19日、夕刊フジ「激闘の日本史(49)」(井沢元彦著)
<人間を身分だけで判断する悪癖>
松平定信が林子平を処罰した理由。
それは子平の著書である「開国兵談」[注:幕末の「黒船」来航を予言した書で、松平定信が主導した朱子学を正統な学問とした寛政異学の禁で発禁となった]の内容が誤りだと思ったからではない。
地方の藩の医者の弟という分際で、こともあろうに天下のご政道を批判した事、それ自体が許せぬという理由なのである。
これも実は朱子学の影響だ。
(中略)
特に定信のようなガチガチの朱子学徒はまず「こいつの身分は?」という目で人間を見る。そして身分が低いと判断すれば、どんな優れた意見であっても決して受け付けない。
いや正確に言えば、「身分の低い人間が優れた意見など言うはずがないと決めつけてしまう」ということなのである。これが朱子学の生み出す最大の偏見の一つだ。
さて、「血液型と性格」に戻ると、否定・批判派は「論文」がないとダメだという反論をよくします。
たとえ同じように見えるエビデンスでも、能見正比古さんのような“在野”の研究者はダメで、学者ならOKとのこと。
しかし、科学の基本は「誰がやっても同じ結果が出る」ということだったはずです。
まぁ、研究者によって調査の信頼度は違うでしょうが、だからといって「論文」以外は頭から無視・否定するということは、科学の本質からいってあり得ません!
ここで、百歩譲って、学者の研究報告やきちんとした論文だけを認めることにしましょう。
残念なことに、実際に論文を読んでみると――特に日本語の論文では――あまりのレベルの低さに引いてしまうものが山…いや少なからずあります(苦笑)。
しかし、この点を指摘すると、なぜか毎回スルーされてしまいます。
また、血液型による差があるとされる外国語の論文、例えば英語や韓国語の論文を紹介しても、これまたなぜか無視されます。
そして、おかしなことに、多くの否定・批判者は、そういう外国語の論文を読んでいないか、酷い例になると、英語はおろか、日本語で書いてある統計さえ満足に理解していない人もいるのです。
これらの反応を合理的に説明すると、たぶんこういうことなのでしょう。
それはずばり、科学の基本である「誰がやっても同じ結果が出る」の否定です。
言い換えると、能見正比古さんや私のような“在野”の研究者が何を言ってもダメで、その反対に学者なら無条件で何でもOKということになります。
つまり、血液型を否定する人の特徴は、心理学が「科学だから正しい」という“神話”を朱子学的に信じている、ということなのです。
もっとも、この「科学」が否定される場合もあります。
例えば、宋の滅亡や、アヘン戦争です。
その場合、どういうことが起きるかは、また別の機会に…。
2019.10.5更新
明治以来の伝統で、多くの日本人は科学を朱子学的に理解しています。
繰り返しますが、「科学=絶対的な真理」だから、疑うことは許されません!
ポイントは、
朱子学の特徴は、よくも悪くも徹底した理念主義である。理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える。これは、社会主義と似ており(後略)
出所:池田信夫ブログマガジン 2019年8月12日号
ということですから、「心理学」は絶対正しいのだから、それに反する「血液型人間学」は絶対間違っていないとダメなのです(笑)。
では、仮に現実のデータで血液型人間学が正しいと実証されたらどうなるのでしょう?
もちろん、朱子学的には絶対にそんなことを認めてはいけません!
なぜなら、「理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える」からです。
信用しない人もいるでしょうから、もう少し具体的に説明しておきましょう。
日本人の多くは、血液型と性格に関係があると思っています。ということは、「性格テスト」には、必ず血液型による差が現れるはずです。なぜなら、そう思っている人が多いからです。
念のため、これは私独自の考えではありません。
たとえば、統計学の権威である三重大学の奥村晴彦教授は、
日本や韓国など血液型性格判断を信じる人が多い国では,性格テストに現れる性格は,血液型に影響されてしかるべきである。「□型の性格は○○である」と聞いて育った□型の人は「自分の性格は○○だ」という先入観を持ち,性格テストでもそのように答える傾向があってもおかしくない。
出所:三重大学の奥村晴彦教授のサイト またまた血液型と性格
と言っています。
それだけではなく、この私のサイトにあるように、実際に30万人ほどのデータの裏付けもあります。
知り合いの心理学者に聞いてみても否定する人はいません。
では、アカデミックな世界の「公式見解」はどうなっているのでしょうか?
日本パーソナリティ心理学会のサイトにはこうあります。
われわれ心理学者は血液型性格判断を生み出した責任をとって[注1],自分たちで血液型と性格との関係について科学的なデータを集めてきましたが,そうしたデータからは血液型と性格の関係がほとんど確認できていないことはご存知の通りです。
[注1]血液型性格判断の基礎を作った古川竹二(1891-1940)は昭和の初めに活躍した心理学者・教育学者です。
予想通り「データでは関係が確認できない」あります。
見事に、「理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える」ということなのです。
これで、なぜ心理学会が「血液型人間学」を認めないのかを、きちんと“科学的”に証明することができました(笑)。
よって、いくら「血液型人間学」が正しいことがデータで示されたとしても、(少なくとも日本では)アカデミックな世界で認められる可能性は極めて小さいことになります。
では、どうすればいいのでしょう?
うまい方法はありませんが、朱子学の影響がない世界から攻めていくという方法しかありません。
これについては、地道に実行していこうと思います。
2019.10.5更新